■ 香港経由、旅たびアジア

インド死闘編タイトル

< 最初に触れたインド >

野良牛

騙されても騙されても何度でもインドに行ってやる~o(`ω´*)o、と思うほどインドにハマッている私が最初にインドに触れたのは、実は中学の頃にさかのぼる。

なんの拍子か中学の頃、あるイベントでユネスコ(国連教育科学文化機関)の小さなチラシを手に入れた。世界には日本よりも貧しい国がたくさんあるのを知っていたが、そこには、そのような国に散らばっているユネスコのプロジェクトの内容と寄付金先が書かれてあった。

なんと、そこで中学生の私の目を引いたのは、
「寄付をすると、そのプロジェクト先からお礼の手紙があなたの元にとどきます」
という文章だった。

おぉ! ゜+.(*’ヮ’*).+゜

私の目がキラリと光る。寄付してみよう、これらの国々に。

魅力的な地名が並んでいた。インド、ネパール、パキスタン…等々。

それらの国で、貧しい村に学校を作ったり、子供だけでなくその母親の識字率を高める活動等をしている とても素敵な機関なのだった。

その頃からとても 偽善者 いい人 だった私は、そのような事業に興味があっただけでなく、昔から海外交流や外国語等に興味がある国際色豊かな子供であり、しかも英語も習い始めたばかり。「その手紙を受け取ってみた~い」 と思った。

まぁ、不純な動機…?

それから月に1回ずつ、リストの上から順に郵便局から寄付金を送った。中学のガキの頃のおこづかいからなので、月500円ずつという、はした金…。

しかし、送り続けた。

こんなはした金に返事は来ないかと思いきや、どんな小額の寄付金でもちゃんとお礼状が届くのにはビックリした。嘘じゃなかった、ユネスコ(^-^)

現地語のものもあり、英語のものもあった。辞書を引きながら英語を読んだ。

その中から、なぜかインドのユネスコの長から来た手紙を選び、「私の寄付へのお礼の手紙、どうもありがとう」 という、お礼の手紙に対するお礼の手紙を出してみた。

「日本からわざわざ手紙をありがとう」 という、私のお礼の手紙に対するお礼の手紙が、またまた私の元に届いた。

そこから私たちの文通(死語) が始まった。

デリーの路地裏の子供達  ←意味もなく挿絵

その頃、既にアメリカに同年代のペンパル(死語) がおり、これで文通相手が2人に増えたが、インドのユネスコ長からの手紙はとても待ち遠しかった。

中学生の私に対して、とても丁寧な文章でインド・ユネスコクラブの状況報告をしてくれ、国際会議で来週はどこの国へ行きます、というような報告に、私の心も彼と一緒に世界中に飛んだ。

「中学生であまりお金がありません」 と書くと、
「その気持ちが嬉しいです。お金がなければ、日本の古切手を送って下さい」
という手紙が来たので、それから鬼のように送った送ったぁ、古切手を!(笑)

その度に丁寧な返事をくれたのだ。彼は南インドのマンガロールで学校を作る事業に関わっていたのだった。

「いつかインドに行ってみたいです」 と書くと、彼は大変喜んでくれ、
「大歓迎します!宿泊と食事は全てお世話しますので航空券だけ取って来て」
と書かれてあった。ありがとうございます~(´-`)

それから私たちの文通は10年以上、社会人になっても続き、1度インドへ行こうとしたときは、宗教戦争が勃発し、初のインド行きを断念。…残念。

まだインドに呼ばれてなかったんだね(´Д`;)

そして20代の中頃、私は香港と出会う。広東語を勉強し、香港へ移住した。それから私の生活モードが完全に広東語に切り替わり、初めての海外での1人暮らしが始まったため、アメリカ人とインド人との文通は途絶えてしまった。

…いや、私が出さなくなったんですぅ、スンマセン。香港に来た当初は山あり谷ありだったんだもの~。人生で1番苦労したよ~。

あのインドのユネスコ・クラブのSouza神父は今どうしているかなぁ?もう定年退職しているかも知れない。私が香港に来てから既に10年だもの…。

今まで北インドばかり歩いてきた私、次の渡印は南インドを目指している。もう Souza神父はいらっしゃらないかも知れないけれど、南インドを見たいので。

私をインドに呼んでくれてありがとう(´-`).。oO

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